鯨飲六石慟哭三斗
二十二年前、講談社文芸文庫から出るのを新聞広告で知った、その時点で既にムチャクチャに興奮して、急に洗顔したり、室内で水菜を投げたりしたのだけれども、じゃあすぐに書店に走ったかというと当時の自分にとっては途方もない大金であるところの定価八百八十円が手元になく、ちょっとしてからその頃、池袋にあった、ぽえむぱろうる、という店で買ったのが井伏鱒二の『厄除け詩集』で、長いこと無慙な生活をしてきたため、その頃買った本やなんか、大方はどっかへ行ってしまって手元にないのだけれどもこれだけは大事に持ち歩いていまでも時折取り出して読むマイベスト文芸文庫にしてマイベスト詩集である。
二十二年前、ぽえむぱろうるに参ったときどんな恰好をしていたかというと、寝間着兼用の紺色の体操服の上下にリーガル社製の革のローファーを履き、黄色と緑の、毛布を改造して作った上衣を羽織り、赤い縁のサン・グラスをかけていた。
悪い意味で人が振り返るような恰好だが、なにも好き好んでそんな珍妙な恰好をしていたのではなく、家にそれしか服がなかったからである。つまりそんな珍妙な恰好で出歩かなければならないくらい莫迦な生活をしていたということなのだけれども、そんな生活をする者の身に詩が滲みた。滲みてズクズクになって、高野豆腐はもさついていかん、など言い、荻窪のことを考えながら蕎麦焼酎を飲んでいた。
それから二十二年後のいま読むとどうなるかというと、滲みてズクズクになるのは同じなれども、二十二年の間、珍妙な恰好しかできないのは変わらず、頭もたいしてよくはならないが、それなりに悲しいこと苦しいこともあって、さらにもっとしゅんで、その水分量は二十二年の間に飲んだ酒の量に匹敵するように思える。
そしてどこがよいかというと全部よいのだけれども例えば訳詩のところなんかは、あっ、と声をあげてしまうようなことがあり、また、成る程っすね、と叫んで膝を叩く部分もあって、とにかくこれがマイベスト文芸文庫にしてマイベスト詩集なんだよ、文句あったらこいっ、と立ち上がろうと思ったけれども膝を叩きすぎて膝が砕けて立てない。申し訳ない。ごめんな。
町田 康
作家、パンク歌手。主な著書に『くっすん大黒』『パンク侍、斬られて候』『きれぎれ』『告白』『宿屋めぐり』『人間小唄』『猫にかまけて』など。
厄除け詩集
井伏鱒二 ●定価:本体940円(税別)