魂のバトンタッチ、心のリレー
講談社文芸文庫のラインナップから私が選んだのは、『寺田寅彦セレクション』(Ⅰ・Ⅱ、以下『セレクション』と略記)である。『セレクション』は、二〇一六年に発刊されているが、そこには、東日本大震災という未曾有の時代の経験が息づいている。寅彦の随筆や断片、アフォリズムの類いから、何を選択して収録するのか、そこには選者の今という時代への研ぎ澄まされた眼識が問われているはずであり、本文庫は、その問いにみごとに応えてくれている。たとえば、Ⅱに収録されている『橡の実』の「災難雑考」などは、まるで今を予見したかのような迫力と深い洞察に富んでいる。箱根での吊橋墜落事故と地震による災害を類比的に攻究しながら、その吊橋の鋼索がいつ何時、断たれるかもしれない、それほど危うい国土に我々は生きているという警告は、今から八十年ほど前に発表されたエッセイとは思えないほど新しい。
ここでも異彩を放っているのは、選者の千葉俊二がⅠの解説のタイトルにしているように、寅彦における「方法としてのアナロジー」であり、ありきたりの現象の考察から、思っても見ない視界が開かれ、時にはゾクゾクするほどエキサイティングな世界が見えてくる、そのアナロジーの妙を、本文庫の至るところに発見できるはずだ。
さらにⅡの解説で細川光洋が的確に指摘しているように、寅彦の文章を読んでいて無性に懐かしさが募るのは、寅彦文学のキーワードのひとつに「追憶」があるからではないか。「死んだ自分を人の心の追憶の中に甦らせたいという慾望がなくなれば世界中の芸術は半分以上なくなるかもしれない」(「庭の追憶」Ⅱ所収)という寅彦の述懐には、人間の来歴を伝え、その物語を受け取り、また伝えていく、「魂のバトンタッチ」にも通じるものがあるように思えてならない。それは、地震と災害による死者たちと生き残った者たちとを繫ぐ「心のリレー」でもある。そこに文学の本質を「人生の記録と予言」に見いだした寅彦の面目があるに違いない。今こそ、読まれるべき現代的なクラシックである。
姜 尚 中 Kang Sang-jung
政治学者、東京大学名誉教授、熊本県立劇場館長。熊本生まれ。理念を掲げ、現実に対する発信を続ける。『マックス・ウェーバーと近代』『悩む力』ほか著書多数。
『寺田寅彦セレクション』ⅠⅡ
すぐれた物理学者にして漱石の高弟でもあった寅彦。内田百閒らに絶賛された、科学者の視線が対象を貫き、芸術家の精神が躍動する随筆の真骨頂を精選。
寺田寅彦著/千葉俊二。細川光洋選 ●定価:本体各1600円(税別)