講談社文芸文庫

24人の読み巧者が選ぶ 講談社文芸文庫 私の一冊

古井由吉

黴 爛

黴 爛

著:徳田 秋声

発行年月日:2017/04/11

自身の結婚生活や師・尾崎紅葉との関係を徹底した現実主義で描き、自然主義文学を確立した「黴」、元遊女の運命を純粋客観の目で辿り文名を高めた傑作「爛」を収録。

黴 爛

著:徳田 秋声

 

新時代の世帯

 

 

 徳田秋声は明治四年(一八七一)に生まれ、昭和一八年(一九四三)に没している。老年の筆者からすると祖父の世代、今の若い人からすれば祖父のまた祖父の世代、とおおよそそんな隔たりになるだろう。
 「黴」は明治四四年(一九一一)に新聞に連載された。秋声自身の「結婚」に至るまでの経緯を踏まえた作品である。三十代のおおよそ五年にわたる紆余曲折になる。
 結婚という言葉を括弧にくくった。それだけの訳合いはある。婚姻入籍の届けが出されたのは、同棲しておよそ一年後に初めの子が生まれてから、さらに半年あまり後になる。子の出生後にも、人を間に介してまでも、別れ話が続く。それでは、入籍が成ってからは落着いたかと思えば、別れ話は繰り越される。作品の最後でも、主人公は「結婚生活」にまだ往生しきれていない様子なのだ。
 お前たちの思うのは、「くっつきあい」とまでは言わないが、婚姻というような重いものではない、と筆者も若い頃に年寄りに言われたものだ。しかし明治の末に大都市の外辺で出会ったこの作品の男女もそれぞれ都市流入者、郷里から根を絶えて流れてきた「浮草」であるのだ。古い時代の話と決めつけることなかれ、と今の若い人には言いたい。虚心に読めば身につまされることも多々あるだろう。
 この男女にとっては、世帯はいつ成り立ったというべきだろう、とたずねながら追う読み方もある。とうに成り立っていて、しかもまだ成り立っていない、としまいに歎息させられるかもしれない。まして「爛」のほうでは、この男女の結びつきの、行方を思わせられる。
 ──私達も、あの人を頼んで、一度お杯をしてみたいじゃないの。
 作品の末尾でひとまず勝利者となったはずの女性が言う。晴々した顔でとあるが、哀しくも聞こえる。

『黴 爛』

自身の結婚生活や師・尾崎紅葉との関係を徹底した現実主義で描き、自然主義文学を
確立した「黴」、元遊女の運命を純粋客観の目で辿り文名を高めた傑作「爛」を収録。

徳田秋声 ●定価:本体1700円(税別)

古井由吉

小説家。東京生まれ。〈内向の世代〉の代表的作家。主な作品に「杳子」「山躁賦」「槿」「仮往生伝試文」「辻」「雨の裾」他がある。最新刊『ゆらぐ玉の緒』。

このページのTOPへ