露伴の戦慄
わたしはこのおそろしく読みにくい小説「運命」が好きだ。
露伴は最初に「幻談」を読んだ。そのエッセイみたいな話にふいと乗ったところ、どんどんスピードをあげて突っ走り、急カーブをぎゅるるるとまがり、そのまま小説という世界のすごくディープなところへ突っこんでいかれたような気にさせられて、度肝を抜かれた。それから「連環記」や「観画談」を読んだ。どれも吸い寄せられるように読めた。でもこの「運命」は、何回読んでも入ってこなかった。なにしろ日本語に思えなかった。てにをはだけが日本語で、もとは日本語じゃないのかもしれなかった。声に出して読んでみた。でも意味がわからないから、いくら読んでもつるつるすべった。しかたがない、文芸文庫を放り出し、青空文庫からダウンロードしてWordに入れて読んでみた。ルビがじゃまなので、片っ端から手で取っていくのである。新かなじゃ読んだ気がしないから、旧かなに戻していくのである。そのうちに、ルビを取ったら読めない漢字ばかりなのに気づいた。生半可じゃない漢字の量であり、種類であった。しかたがない、放り出した文芸文庫の「運命」を片手に、片手は画面の上の「運命」を操作しつつ、見比べながら読むしかなかった。ルビは取らずに、ルビのためのカッコだけ取ってみた。息つぎのところで行替えして、現代詩のように行分けしてみた。対句の箇所は並ばせてみた。そしたら声が立ち上がってきた。知らない固有名詞はいちいちネットで探した。場所が特定され、人の生きて死ぬまでの時間も見えてきた。するといきなり目前に露伴その人が立ってるような気がした。
両足をふんばって頑と立ち、わかろうがわかるめえがおれの知ったこっちゃねえと怒ったように言う露伴は、伝えたいことを伝えるだけ伝えて後を顧みない。そのときわたしに、最初の一文を書きつけたときの露伴の戦慄が伝わってきたのである。
「世おのづから数といふもの有りや」
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伊藤比呂美
詩人。作家。東京生まれ。『ラニーニャ』で野間文芸新人賞、『河原荒草』で高見順賞、『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』で萩原朔太郎賞および紫式部文学賞を受賞。
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『運命/幽情記』
幸田露伴
●定価:本体950円(税別)