講談社文芸文庫

24人の読み巧者が選ぶ 講談社文芸文庫 私の一冊

川上 未映子

ゴットハルト鉄道

ゴットハルト鉄道

著:多和田 葉子,

解説:室井 光広

発行年月日:2005/04/09

暗く長いトンネルの旅を〝聖人のお腹〟を通り抜ける陶酔と感じる「わたし」の
微妙な身体感覚を詩的メタファーを秘めた文体で描く表題作ほか二篇を収録。

ゴットハルト鉄道

著:多和田 葉子,

解説:室井 光広

言葉でてきていないものが、この世にあるのか

 初めて小説の依頼をもらったとき、当然のことながら小説を書くということがどういうことなのかわからなかった。それで『ゴットハルト鉄道』を書き写してみた。自分にとって特別なこの小説の中で起きていること、言葉とその質量の連続を、身体的に味わってみたかったのである。
 それはおそらく『ゴットハルト鉄道』の主人公が、ゴットハルトを貫くトンネルに対して抱くものを共有するかのような体験だった。他人が書いたものとはいえ母語で書かれた文章を書き写しているだけなのに、そこには通常の読書体験とは異なる、いくつもの「翻訳作業」があった。それは回転して暗闇を進んでいく列車のように行き戻りし、物語とも詩とも記憶とも記録とも時間ともつかないものの「お腹」を通過する感覚そのものだった。
 多和田葉子は外界に身体を発見しつづける作家である。文字に、模様に、音に、物に、土地に、境界に、そして移動そのものに。そして肝心なのは、それがいつだって、誰の、何の身体なのかがわからないことだ。ひょっとしたら、痛みとも性別とも社会とも所有とも無縁な身体、というものが存在するのではないか。あるとすれば、それはもちろん「言葉」で、その実感は、「言葉でできていないものが、この世の中にあるのかどうか」という主人公の直観とあきらめに響き合う。
 列車に乗って、長くて暗いトンネルを旅する話。その暗闇には、何ものでもない「言葉」という身体でなければ、出会うことのないイメージが生成をくりかえす。そこで読者は、入り口になり、轢き殺してしまう自殺者の数になり、詐欺になり、食道になり、シーツにくるんでバルト海に沈められるシラーの本になり、頭のうえの林檎になり、急ブレーキになり、ペニスを何本も詰められた男の腹の中になり、機関車の発展史になる。自分というものが「言葉」なのだということを、身体に思いださせる小説である。

ゴットハルト鉄道

暗く長いトンネルの旅を〝聖人のお腹〟を通り抜ける陶酔と感じる「わたし」の
微妙な身体感覚を詩的メタファーを秘めた文体で描く表題作ほか二篇を収録。

多和田葉子 ●定価:本体1250円(税別)

川上未映子

小説家。「乳と卵」で芥川賞を受賞。作品に『わたくし率 イン 歯ー、または世界』『ヘヴン』『すべて真夜中の恋人たち』『愛の夢とか』『あこがれ』他がある。

 

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