「ありえねえ」パワーの凄まじい迫力
和物の充実ぶりに比べて注目を浴びる機会は少ないかもしれないが、講談社文芸文庫は、翻訳物もなかなか捨てがたいラインアップをえている。講談社という出版社の姿勢が基本的に太っ腹なのか、それとも野心的な編集者に恵まれているのか、あるいはただ単に基準がアバウトなだけなのか、そのへんの理由は不明だが(ほんとに知らない)、「ええ、こんなものが!」と叫びたくなるようなワイルドな作品が、白昼堂々と書店の棚に並んでいて、本好きを大いに喜ばせてくれる。そんな「こんなものが!」という中であえてお奨め作品をひとつ選ぶとすれば、やはりこの『鉄仮面』にとどめを刺す。
『鉄仮面』といっても若い人には馴染みがないかもしれないが、僕が子供の頃は少年向けにリライトされた小説が人気を呼んだものだ。血湧き肉躍る冒険小説。それがフランス語の原典から大人向けに完訳されたというのだから、これは読んでみないわけにはいかない。読んでみるとわかるけど、まあ驚きあきれるほどいい加減な話である。十九世紀の後半に書かれた小説だが、いい加減というか、圧倒的に調子がいいというか、現代小説に課せられた面倒な掟を、片端からびりびり破りまくって進んでいくこの物語の「ありえねえ」パワーには、言葉を失うほど凄まじい迫力がある。
なにしろなにしろ10ページに一回くらいのペースで「おいおい、まさか、こんな偶然があるわけないだろ」みたいな都合の良い巡り合わせが続出し、強いやつはむやみに強く、きれいな女性はむやみにきれいで、根性のねじれた悪漢はむやみに悪いやつで、むずかしいことをまったく考えなくてもいいので、とにかくすらすら読み進んでいける。現代小説みたいにいちいちリアリティーをつなぎ合わせる必要もない(そんなことをしていると時間がかかる)。かなり分厚い本なのだけど、「こんなのありえねえ!」と感嘆しながら、あっという間に読み終えてしまう。お奨めです。
あるいは読み終えて、「こんなあほな本を読んで時間を無駄にした」と嘆かれる方もいらっしゃるかもしれないが、時間を無駄にするのもけっこう大事ですよ。
村上春樹
作家。1979年『風の歌を聴け』でデビュー。主な著書に『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』『女のいない男たち』など。
鉄仮面(上下)
ボアゴベ著 長島良三訳 ●定価:本体各1800円(税別)